ありふれた『面白い』についての話 for Board Game Design Advent Calendar 2015

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この記事は、Board Game Design Advent Calendar 2015の12日目の記事として書かれましたが、この手のコラムではどこにでもあるようなありふれた内容となっています。
ゲームの予測可能性複雑性など、かなり詳細な内容を詰めている記事が多い中、語りつくされたような話題。つまりはアナログゲームの『面白い』について少々書かせて頂いております。
過去、テーブルゲームデザインの本で似た記事を書かせて頂いたのですが、今回はちょっと違う切り口から見てみましょう。(なお、結論はあまり変わりません。)



操られ人形館の4つ目の約束

語りつくせども尽きぬ『面白い』に関する話をさせて頂く前に、少しだけ自己紹介をさせて頂きます。私、常時次人は操られ人形館という個人サークルをしており、ありがたいことに今年でサークル結成より10年を迎えることができました。主なサークル活動はアナログゲームの創作です。カタカナにするとゲームデザイナーなんてかっこつけた言い方も、もしかしたらできるかもしれません。

そんな創作活動ですが、操られ人形館では発表するゲームを創るに際して、大きく3つの約束事。いうならば創作コンセプトのようなものを設けています。ホームページなどで一応公開しているのですが、その内容は以下の通りです。

① 「操られ人形館」のゲームは、プレイヤー同士の色濃いやり取りでなければならない。
② 「操られ人形館」のゲームは、繰り返し遊べる奥深さがなければならない。
③ 「操られ人形館」のゲームには、新しい感動の種がなければならない。


押しつぶした言い方をすると、インタラクションが十分にあり(ソロプレイ感があまりなく)、何度も遊べて、何かしら新鮮な要素や組み合わせがあるゲームを創っていきましょうということです。
しかし、これは表向きのコンセプト。実はこの裏側に2つ、3つの裏コンセプトがあります。今日は普段公開しないそのうちの1つを紹介させてください。

④ 「操られ人形館」のゲームは、『面白い』を目指して創られてはならない。

はぁ?と言いたくなるようなコンセプトです。じゃあ、操られ人形館のゲームはつまらないこと前提で創られているのか?とか。そもそも先ほどの①~③のコンセプトは『面白い』を目指すが故の約束事ではないのか?とか。いろいろと突っ込めそうです。
もちろん、成果物が『面白い』に越したことはありませんが、この裏コンセプトは何もこの記事のためにでっちあげたものではなく、かれこれ6~7年ほど守られ続けているものです。
ちょうど「The Majority」を発表したあたりに定めたものと記憶しています。あくまでも「目指して」はいけないというだけですが、それにしても異様な感じがするではありませんか。ありふれた話題でもちょっとキナ臭い感じがしてきましたね。つかみはOKでしょう?!

それでは少しづつ『面白い』について筆を進めていきます。



『面白い』はどこからくるのか

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さて、異様な裏コンセプトを持つ操られ人形館ですが、これについて突っ込んだ話をしていくにはまず、私の考える『面白い』について少し触れておく必要があります。

割り切った言い方をしてしまうとアナログゲームの『面白い』の源は【理解】であると考えています。もう少し慣れた言葉に言い換えると【発見】と【検証】です。
外科手術で余計なものをとことん全て取り除けば、所詮簡単なロジックや数式の世界でしかないアナログゲーム。しかし、この【理解】が『面白い』を放出します。

最もわかりやすい例を挙げるならば、アグリコラやテラミスティカのような戦略性の強いゲーム。
この手のゲームはルールを聞いた時、あるいは繰り返し遊んでいく中で様々な発見ができるでしょう。そしてそれを実際に試してみる検証。これをなくしてこれらのゲームの何が『面白い』というのか、と言いたいほどです。
他にもドミニオンなどはサプライが決定した時点で(あるいはその前のゲームが始まる前に)勝ち筋を発見し、ゲームはそれの検証作業が7~8割を占めるといっても誤解を招かないほどです。
逆に、アグリコラなどのルールが多いゲームではその作用が頭にスムーズに入って来ずに【理解】できないケースがあります。この場合『面白い』を得ることはかなり難しくなり、『面白い』源の不足状態になります。
何度かルールを読み返したり、プレイを繰り返し【理解】が蓄積されるまでは比較的『つまらない』状態になる可能性があるのは難点です。

逆にパーティゲームや比較的ルールが少ないゲームの場合は【理解】が不足する可能性は低くなります。
一方で【理解】はそれが成されることで『面白い』を生む性質があるため、ルール説明時に一瞬で全てが理解できてしまい、発見や検証の余地がない場合などは『面白い』源がやはり不足します。不足というよりも瞬時に使い尽くしてしまうイメージで、木を燃やしている火が『面白い』であるならば、ゲーム開始時に全て消炭になっている状況です。
つまり【理解】を進めることができる程度に簡単であり、【理解】しきってしまわないゲームが『面白い』ゲームということができるでしょう。

バランスが良い悪いなんて話もありますが、バランスが悪く特定の手が抜きんでしまう場合は、それをすればいいという時点で理解木炭の燃焼がストップしてしまうので『つまらない』ことになるのです。


他にも『面白い』源は結構ありますが、その多くは割と【理解】の亜種だと思っています。

例えば「勝ったゲームは二割増し」でお馴染みの【勝利】です。
ゲームは勝てば『面白い』といいますが、勝利は十分条件でしょうか。この「勝利」を「発見や検証の末にその検証結果が正しかったこと」と言い換えることはできないでしょうか。さすれば理解に延長線上にあるものと考えることができます。
少なくとも私は、なんだかわからないまま仕方なくてきと~に打った手で勝ったゲームを、手放しに評価することはできません。

ルールが簡単なゲームの代表として心理戦を銘打つゲームや、もっと辛辣な言葉ではじゃんけんゲームなどと呼ばれるゲームがあります。
これも時に『面白い』ものです。そうするとさっきの話と違うじゃないかということになりますが、理解にはゲームそのものへの理解他のプレイヤーの考えや動きに対する理解という2つの『面白い』源があります。
アグリコラであれ、ドミニオンであれ、いずれは理解しきって消炭状態になるのですが、それでも繰り返し遊べて『面白い』ことがあるのは、アナログゲームが対人ゲームである綾。
つまり他のプレイヤーの打ち手に対する理解やそれに対する発見、検証が尽きることなくできるからです。
簡単すぎるゲームはこの後者に大きな比重が乗っていると考えれば辻褄が合います。私個人としては理解は二段階(システムの理解とプレイヤー間の理解)にしっかり分かれるぐらいが好みなのだったしますが、これらの簡単系ゲームの最大の利点はシステムへの理解不足による『つまらない』が発生しにくいことにあるでしょう。みんなわかってみんな参加できるのです!
これを【共感】とでも呼びましょう。

さらにゲームをいくつも遊んでくると、いろんなパターンを覚えてしまい、火点きが悪くなってきます。そんな人たちは特殊な理解の形【納得】を『面白い』源とすることがあります。
自分が検証するまでもないと思ったゲームでも、そのゲームが創られたコンセプトなどに想像の糸を伸ばし、「このゲームは私とは違うプレイヤー向けなのだからこれでいい!」と思ったり、理解できないゲームにあっても、「もっと自分よりやり込んでいる人にはきっとこんな風に面白いのだろう」と思えたりするとこの境地に入ります。
【納得】はゲームを常に楽しく遊ぶために大事な理解の形ですが、個人的にはこれだけでは極上の『面白い』は得にくいかなという印象があります。ただ、私がほとんどのゲームに抱く理解はこの【納得】だったりするのも事実です。


ともあれ、操られ人形館の表コンセプトのうち、①~③は全てこれを前提としたものです。
②は「燃料であるシステム理解がすぐに枯渇しないこと」を指していますし、③を満たせば「その新しいものを理解するという発火が担保」されます。①は②③を満たしてなお、繰り返し使える「第二のエコ燃料」(プレイヤー間理解)を用意せよという意味になります。
ってことは、やっぱり『面白い』を目指しているのではないか!と。まぁちょっとそちらについては保留させてください(笑)


さて、ここまで読んで何か騙された気がしている人はいないでしょうか。
その慧眼、大切にして下さい。逆にここまで何の疑いも持たなかった人がちょっと騙されやすい傾向があるかもしれませんよ。ここまでの話にはちょっとしたピントのずれが存在するのです。



『面白い』のはゲームではない!

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話の違和感の原因、種を明かすとそれは主語の違いです。
『面白い』ゲームを目指すとか目指さないとか、そんな切り方をしておきながら理解、発見、検証、勝利等を行うのはゲームではなく、プレイヤーなのです。(協力ゲームでプレイヤー側が敗北すれば相対的にゲームが勝利するなんてこともあるかもしれませんが)

『面白い』は人が感じるものであり、ゲームから自動的に生まれるものではありません。
そういう意味ではWeb上に溢れかえる「あのゲームが面白い!つまらない!」といった感想は厳密には嘘になります。これらはゲームへのことではなく、そのゲームを用いたセッションへのことなのです。

ゲームそのものがセッションへ与える影響は小さくはありません。しかし、先ほどの理解論議に話を戻せば、ゲームがどうのこうというよりもゲームとセッションに参加したプレイヤーの理解度合との相性問題による部分が大きくなると考えることができます。
しかも同卓するメンバーの理解度合が一定幅に収まる保証はなく、仮に1人でも極端な『つまらない』を得てしまうとセッションが破綻することもあります。さらに厄介なことにメンバーを固定すれば安定かというとそうでもなく、例えば、10年前の私と今の私の理解度合はもちろん違いますし、寝不足の私と絶好調の私のそれももちろん違います。今回と次回の私が同じ保証はどこにもないのです。

大事なことなので繰り返しますが、『面白い』『つまらない』は本来ゲームに与えられる称号ではなく、セッションの称号です。最高に面白いゲームを体感できたときはそのゲームを褒め称える以上に、互いにセッションを『面白い』に導いたプレイヤー間を褒め称えるべきとも言えるでしょう。


④ 「操られ人形館」のゲームは、『面白い』を目指して創られてはならない。

さて、忘れてしまう前に話を戻しましょう。裏コンセプトの真意は「ゲームのみで『面白い』を決定づけることは不可能」ということを忘れないために定められたものです。
ゲームがターゲットを明白にすればセッションも担保できるのでは?という話を昔書きましたが、ゲームを手に取った本人までならばまだしも、それをオープン会で遊ぶ際に同卓するメンバーの理解度合や体調までどうフォローしろというのでしょうか(投げやり)
ご希望とあらば私が同卓し、名作と言われるゲームを呆れ返るほどつまらなく遊んでご覧にいれましょう。

余談ですが、最近マニュアルだけを読み、ゲームを評価する方がいるようです。これは非常に興味深い試みです。
「遊んでないのに何を言う!」と怒る人がいるのも想像に易いですが、この方式はセッション(参加する全てのプレイヤー複数人+ゲーム+α)ではなく「マニュアルを読む人1人+ゲーム+α」によって『面白い』かどうかを判断する試みとみることもできます。
前者よりも後者の方がブレ幅が少ない気がしませんか?



『面白い』はデザインの泥沼

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『面白い』とは厳密にはゲームのことではありません。故に『面白い』ゲームを目指すことには危険が伴います。

① 「操られ人形館」のゲームは、プレイヤー同士の色濃いやり取りでなければならない。
② 「操られ人形館」のゲームは、繰り返し遊べる奥深さがなければならない。
③ 「操られ人形館」のゲームには、新しい感動の種がなければならない。


この3つの創作コンセプトは、さきほどの理解論議から、結局は『面白い』を目指しているものかもしれません。しかしデザインをするに当たり、漠然と『面白い』ゲームを創ろうとしたことは一度もありません。

例えば③から始めれば、何か新しい要素や要素の組み合わせを用意し、それを有効に実装できるようにゲームを創っていきます。それがインタラクションを持ちにくいものであれば、それをどの程度担保するべきか。一発ネタになりそうであればそれはどの程度繰り返し遊べるか。そのあたりから、ある程度落としどころを決め、そこに向けてデザインを進めていきます。
その創作過程で『面白い』を凝視することはなく、それぞれの要件を如何に満たせるようにするか、うまく発展させていけるかという過程が私のデザインです。

漠然とした『面白い』は不安定で定まらないゴールです。
そこを目指していけば思わぬ泥沼に嵌ったり、どこがゴールともしれぬマラソンを延々とさせられる危険性があります。やっぱり創作はどうあれ完成させなければ、気力が持ちませんので、こんな危ないところは目指さないと心に決めているわけです。
別に言い方をすると「ゲーム創作のコンセプトはしっかりと持とう!」というやつです。なんともありふれた話ではありませんか。

ちなみに『面白い』を目指しても「感じる人」を自分に絞れば、ある程度安定するのではないかという話も昔書きました。
大凡間違いではないのですが、この自分も危ういものです。テストプレイを繰り返す自分を想像してください。いうまでもなく創作中のゲームに関する理解はそれこそシステム燃料が完全に尽きるほどに深まっていきます。創作中は年がら年中そのゲームのことを考えているのですから。また創作を繰り返せばそのゲームのみならず、総合的なゲーム理解も否応無しに深まるでしょう。
私がゲームを発表する段には、システム燃料が尽きた理解しすぎ状態になっています。この新作は『面白い』ですか?と聞かれれば、もちろんNOとは言いませんが、正直なところは「面白いと思いますが、私はそれなりに飽きています(笑)」ぐらいのステータス状態です。
こんな自分が漠然と『面白い』で評価して、本当にゴールできるかという点だけはちょっと留意しておくべきでしょう。



大多数には逆らえぬ

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繰り返しますが『面白い』は不安定なものです。デザインを泥沼に導く危険性もあります。
しかし、世の中の基準はいうまでもなく『面白い』か否かです。それがどんな振れ幅を持っていようが、人は面白いゲームを遊びたいものですし、面白いゲームを求めています。某ゲームショップのHPに「面白いゲームだけもっと欲しい!」という印象的な一文が綴られていたことを記憶している人も少なくないのではないでしょうか。

これは何もアナログゲームに限った話ではなく、デジタルゲームでの評価も『面白い』か否かですし、ちょっと言葉を換えれば料理や飲食店の評価は『おいしい』かどうかだったりします。(これも言うまでもなく相性による部分が大きくブレ幅が激しいです。)「これは個人の感想です。」とどこかで聞いたような文面を付けてみても、あまり意味はなさそうですね(笑)

突き詰めた先の極論において、ゲームを創るときも遊ぶときも『面白い』か否かは時の運とも言えます。これはどうしても諦めるしかありません。万人が何時も『面白い』ゲームは私の知る限り絶対に創ることができないのですから。

ただ、創作側からするとありがたいことに、アナログゲームプレイヤーの『面白い』発信、つまり感想やレビューはとても良心的です。そのゲームをどこで遊んだか、どんな風に遊んだか、何故『面白い/つまらない』と思ったかが多少なりともついているものが多く、分析をしようと思えば『面白い』のケース分けなども不可能ではないからです。
どこかのゲームアプリの評価では(アンドロイド専用と書いてあるのに)「私のiPhoneで機能しなかった!最低!」とか、(何の前触れもなく)「超最高!(全文)」だとか見るに堪えないもので満ち満ちています。
それと比べればゲームを遊んでもらうアナログゲームデザイナーは恵まれた環境にあると言えるでしょう。

なお『面白い』を巡るいたちごっこは古来より続き、きっと近い未来に終焉を迎えることはありません。ゲームがあればそこに遊ぶ人がいる。当たり前のことですが、ゲームに『面白い』を求めれば、そこに終わることのない戦いを楽しめます。デザイナーの皆様は疲労困憊もなってしまわないように気をつけてください(笑)



『面白い/つまらない』禁止Dayのご提案

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さて、ここまで読んで下さった皆様に1つ、気が向いたら試して頂きたいことがあります。
それが『面白い/つまらない』の禁止です。(もちろん、『楽しい』とか『まじぱねぇ!』とかも禁止してください。)
何故『面白い』のか考えてみよう!という話題が挙がることがありますが、テストプレイ、あるいは他のゲームの感想にこのワードを禁じることで解析が進んだり、自分のゲームの好みの立ち位置が明白になったりします。

・このゲームは『つまらない』。

これが率直な感情だとしましょう。しかしこれではゲームの改善点は見つからず、他人に意見を求めることも困難です。
「このゲーム、なんかつまらないんですけど、どうすればいいでしょうか?」と相談されても結構困りものです。しかも今日は『面白い/つまらない』禁止Dayですので、つまらないとか言ってはいけません。「面白い/つまらないと言ってはいけない24時」で口を滑らせれば、尻バットの刑です。言い換えましょう。

・このゲームはテーマとシステム(ルール)が噛みあっていない気がして納得できない。

進みましたね。そこはかとなく良い感じです。しかしこの記事を読んでくださっている方はもう少しゲーマーだと思いますので、もう少し行きましょう。

・このゲームの~といったルールが、テーマである〇〇における□□という現象と余りにも差異がある。~というルールはこのゲームにおいて重要な部分であると感じられるが、もう少しテーマに即したルールに変更しないと違和感がある。例えば~を✩✩と変えてみるなどはどうだろうか。

はい。ここまでくれば合格点ですね。テストプレイならデザインが次のステップに進めるかもしれません。テストプレイでなくとも、漠然と「テーマとあっていない」から、自分がテーマのどういう部分を大切にしたい趣向にあるのかが分かったり、理解不足が急激に解消するきっかけになったりして、次回はとても『面白い』ことになる公算がでてきます。

「面白いと言ってはいけないゲーム会(あるいはテスト会)」。気が向いた人がいたら開催してみてください(笑)。意外といい結果が得られるかもしれません。



最後に

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とりとめのない話をグダグダを書いてきましたが、この記事は「ありふれた『面白い』についてもう一度見直してみよう!」というのが結論です。
せっかくの年の瀬です。何気なく使い、追っている『面白い』をもう一度見返すとアナログゲームの新たなステージが開けるかもしれません。
『面白い』ゲームのことばかり構わず、たまには『面白い』にも構ってあげましょう。

蛇足ですが、ゲームを創る人間、言い換えれば創ったゲームが評価される立場にある人間が評価の方法を含む内容に触れることは、あまり望ましいものではないかもしれません。(少なくともわりとそう考えています。)この記事を不快に思われる方がいらっしゃいましたら、深くお詫び申し上げます。




さて、私の記事はここまでですが、13日目の記事はイリクンデのyioさんによるものです。
最近ではゲームをご一緒させて頂いたり、新作「セブン」には私が一枚噛ませて頂いたなど、何かと交流のある方です。「しまんちゅ」からの流れもあり、今をときめくデザイナーさんともいえるでしょう。
きっと斬新な切り口でまったくありふれない、『面白い』記事をアップして下さると思いますので、ぜひともご期待ください!

それでは長文を最後までお読み頂いた皆様に本当にありがとうございました。残りわずかの2015年、アナログゲームとともに良いお年を。


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